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戦国武将コース



歩行距離 : 1600m
所要時間 :  19分
牧野城跡
牧野城跡
応永年間(1394〜1427)に足利将軍義持の命により新補地頭となった田内(田口)伝左衛門成富が四国の讃岐から三河国中条郷牧野村に来住し、城を構えました。現在、土塁が最大高さ5〜6m、約30mにわたって残っています。土塁の南側には堀跡らしく窪地が数mの長さで確認できます。
歩行距離 : 500m
所要時間 :  6分
さぬき屋敷公園

さぬき屋敷公園
永正2年(1505)、牧野古白(成時)が今橋城(吉田城)を築いて移ると、牧野城主だった長男の能成は城を取り壊して新しく居館を構えました。一族の牧野康成が、徳川家康に従って上州太胡(群馬県)に移ってからも、能成の一族はこの屋敷に留まりました。現在は公園となり、門が残っています。
歩行距離 : 1300m
所要時間 :  16分
瀬木城跡
瀬木城跡
明応2年(1493)に牧野古白が牧野城につぐ居城として、また、河岸段丘の上へ進出する拠点として築きました。間もなく一色城に進出し、牧野城には長男能成を、瀬木城には二男の成勝を配りました。本丸と思われる所は一段高くなっており、現在は神明社が祭られています。その周辺には高い土塁と広く深い堀が残っています。
歩行距離 : 2200m
所要時間 :  26分
一色城跡

一色城跡
大聖寺を取り巻くにあたり一帯が城跡で、わずかに土塁が残っています。城は、永享11年(1439)、一色刑部少輔時家によって築かれました。文明9年(1477)時家は家臣の波多野全慶に殺され、全慶も明応2年(1493)、一色氏の旧臣・牧野古白に敗れ、以後、牧野氏の居城となりましたが、牛久保城が築かれたため、廃城となりました。
歩行距離 : 160m
所要時間 :  2分
一色刑部の墓(大聖寺)
一色刑部の墓(大聖寺)
一色氏は足利氏の一門で、永享の乱(1438)のとき一族の一色刑部少輔時家は鎌倉を逃れ、一色城を築き、ここを拠点に下長山・牛久保など現在の豊川市一帯を支配しましたが、家臣の波多野全慶に殺されました。現在、大聖寺には、一色刑部の墓と伝わる五輪の塔があります。
歩行距離 :    0m
所要時間 :  0分
今川義元公墓所(大聖寺)

今川義元公墓所(大聖寺)
今川義元は、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで織田信長に討たれて首を取られました。今川の家臣たちは首のない胴体だけの義元の遺体を背負い、駿河へ退却する途中、大聖寺の境内にひとまず葬り、手水鉢をその上に墓印として置きました。3年後、義元の嫡子氏真により三周忌が営まれ宝塔が建てられました。
歩行距離 :  280m
所要時間 :   3分
八幡社
八幡社
奈良時代、三河国に大きな飢えきんが発生したときに、ときの国司が住民の心のすさぶことを憂い、社殿を建て仁徳天皇を祭ったのが始まりといわれています。毎年4月7日、8日に近い土、日曜日には、奇祭と知られるうなごうじ祭(若葉祭)が行われ、山車、笹踊り、ヤンヨウガミが八幡社から天王社まで往復し
ます。                   八幡社詳細
歩行距離 :  640m
所要時間 :   8分
山本勘助の墓(長谷寺)

山本勘助の墓(長谷寺)
武田信玄の軍師として知られる山本勘助は、この寺の念宗和尚と親交があり、信玄に召し抱えられたとき遺髪を和尚に託しました。永禄4年(1561)、勘助が川中島の合戦で戦死した後、その死を悼み遺髪を埋めて建立したのが、五輪の墓です。また、長谷寺には、勘助の守護神であったとされる木造摩利支天尊像も安置されています。
歩行距離 :  500m
所要時間 :   6分
牧野成定公廟
牧野成定公廟
牧野成定は、牧野保成の後をうけて第2代牛久保城主となり、このころ今川方から徳川方に従うようになりました。永禄8年(1565)、家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、無血開城させるという武功をたて、家康の信任を得ました。墓碑は貞享元年(1684)、成定の曾孫により建てられました。
歩行距離 : 1200m
所要時間 :  14分
牛久保城跡

牛久保城跡
享禄2年(1529)、今橋城主牧野信成の命を受けた一色城主牧野成勝により築城されました。扇状台地の端に造られた平城で、南は下郷を一望でき、北には二重の堀をめぐらし、城を取り囲むように城下町がつくられました。元禄13年(1700)に廃場となり、当時の城の姿をとどめる遺跡は残っていません。
歩行距離 : 120m
所要時間 :  1分




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