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海軍工廠







豊川市海軍工廠は、海軍兵器の生産を目的として、昭和13年に旧宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村にまたがって建設することが決定され、昭和14年12月に開庁しました。機銃及び弾丸や艦船で使用する距離儀、双眼鏡、射撃装置などを生産し、機銃の生産に関しては日本最大の規模で、東洋一の兵器工場と言われました。
工廠の発展は、人口の増加や各町村の結びつきを強めることとなり、豊川市の誕生・発展に大きな影響を与えました。しかし、昭和20年8月7日の米軍B29爆撃機124機とP51戦闘機45機による空襲により破滅的な被害を受け、2,500名以上の人が犠牲となりました。


レンズ研磨作業風景


豊川海軍工廠では、その規模からも分かるように大量の人々が兵器生産に従事していました。現在確認できる資料に基づいて従業員数を明らかにするのは難しいですが、最盛期にはおおよそ5万人以上の人々が交代で働いていたと推定され、職員や工員以外に微用工員(女子挺身隊を含む)や動員学徒のように強制的に動員された人々も多くいました。
工廠での仕事は、「産業戦士」と言われるように厳しくつらいもので、寄宿舎住まいの微用工員や動員学徒などは、日常生活の全てにわたって、軍隊並みの規律正しい生活をしていました。

職  員  廠長(中将) 1名
 部長(少将・大佐) 9名
 主任(佐官級) 40名
 係官(尉官級) 550名
 係員(判任官・書記・技手) 100名
工  員  工長(下士官)、工手、職手、一等工員、二等工員 10,000名
微用工員  微用工、女子挺身隊、朝鮮人微用工 40,000名
動員学徒  大学、高専、師範、中学校、男子実業学校、
 高等女、女子実業学校、国民学校高等科
6,000名
合計 56,700名
※上表は、八七会発行『豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場』より引用した資料ですが、現在も実数は不明です。

アメリカ軍は、豊川海軍工廠を空襲する参考とするため、昭和19年(1944)に上空から写真撮影を行い、施設の構造などを分析して空襲の計画を立案していきました。そして、昭和20年(1945)8月7日、午前10時13分からわずか26分間に3,256発もの500ポンド爆弾が落とされ、工廠は大きな被害を受けました。この空襲により、2,500人以上の命が奪われ、その数倍の人々が負傷する事態となりました。
平和な今の時代、かつて豊川の地においてこのような出来事があったとは想像もできないのではないでしょうか。


空襲を受け破壊された工廠(正門付近)



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十三回忌に当る昭和32(1957)年、、豊川閣境内にて「みたま祭り」の盆踊り供養が行われ17回忌の昭和36(1961)年、豊川稲荷音頭奉賛会は8月7日の被爆犠牲者の霊を慰めるため、豊川連区の町内会や各団体参加の「みたま祭り」を行うようになりました。
毎年8月7日は豊川閣境内で、翌8日は豊川駅前の大通りで「みたま安かれ」と祈念した盆踊りが行われております。

                          みたま祭ページへ


みたま祭風景



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上記の記事が詳しく載った海軍工廠パンフレットです。



豊川海軍工廠パンフレット2枚 2.38MB
※豊川海軍工廠パンフレット内側 1,062KB
  豊川海軍工廠パンフレット外側 1,394KB
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