牛久保城は三河国宝飯郡牛久保にあった平城です。
享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。
その後も牧野氏がほとんどの時期を城主を勤めましたが天正18年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡に2万石を領して移動しました。
牛久保城は吉田城に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久(平左衛門)が城主となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は天領となり、城郭の一部が代官所になるなどして機能していましたが、元禄13年(1700年)に廃城となりました。
牛久保城はかつて豊川の古い河岸段丘を利用した2重の水堀を備えた平城でありましたが、現在はその遺構が全く滅失しています。しかし城跡周辺には城跡・城下・大手などの小字が残り、往時をしのばせました。過去の発掘の結果、堀の遺構は確認されています。
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